例大祭お疲れさまでした

21日は例大祭でした
コロナ禍に悪天候、地方イベントという状況でしたがそこそこな人で楽しく過ごしてきました。参加された皆さんお疲れさまでした

個人的な感触として、コロナ禍での即売会のあり方を強く実感するイベントでした

一般もサークル参加者も、かなり規律正しくて、酷い羽目外してる人を見かけることもなく、イベントを盛り上げようとしつつも守ろうともしてる気持ちが伺えると思いました

きっとこれが規模が大きくなり、催し物などが増えて派手でバブリーな感じが出てくると粗行の悪い人も出てくるのでしょうが、規模がそこまで大きくなく慎まやかである間は落ち着いて粛々と行われていくのだろうと思います

イベントでの売上もそこそこで悪くない反面、書展委託での戻りは弱くて即売会が盛り返してくるまではあっちは厳しいかなとも感じていて、当面まだまだFANBOX・コミッション・DL販売が主軸になっていきそうです

即売会には、少しローテンポながら参加していこうとは思いますのでその際は一つよろしくおねがいします

あと、今回スケブは全面NGだったのですが、事前に告知はするようにしていきます(汗

自己肯定感とSNS

最近になって気づいたこと
「自己肯定感」という言葉がちらほら耳につくようになった
これは何だろう?

ソーシャルが盛り上がりかけた頃、WEBの開発者が「承認欲求の強いアーチストの志望者」を集めて宣伝させればサイトの広告宣伝費をタダにできる、と豪語していたのを聞いた。
漫画家としては、かなり気分の悪い話だが一理あるとは思った

今、SNSを見ていて、承認欲求で作品を作っている人が生き残っているだろうか?
とてもそんなふうには見えない、そういう時代はとっくに終わってしまった

では今起きている変化はなんだろう

TLを眺めていれば綺麗なイラストがどんどん流れてくる、つまりタダ見できる
技術情報も、政治経済、国際時事、いろんな情報が素早く流れてくる
インターネットは今もなお、フリーライドの世界(著作者にとっては酷い世界だが)

何もせず、簡単に、便利に、欲しい、情報が自動で手に入る

その先は?

どうも、ここに追加されたのは「自己肯定感」のようだ

つまり、簡単に便利に欲しい’且つ自己肯定感を満たしてくれる’情報が自動で手に入る

自己肯定感を満たすというのは、多分これはキャバクラ嬢のやるトークみたいなもので、自分に都合の良い、気分を良くさせてくれる言葉であること

ひょっとしたらもう、自己肯定感を満たしてくれるならその人に必要な情報ですら耳を傾けてない可能性もある

そんな環境で「自分が何であるか」をソーシャルで表現していても、果たして耳を傾けているだろうか

自分はあまりこういうのは元々好きなタチではないので、人にそういうのを求めないし自分もあまりやってないつもりの苦手な方のものだ。これがソーシャルメディアのゴールなら、自分はまだ権威主義的なマスメディアの方に好意的だと思う

(交流会改め)勉強会の計画

コロナ禍に入るまでときどき武蔵野プレイスで開催していました漫画・イラスト交流会でしたが、今後について計画中です

まず、「交流会」という形式を改めます

元々、交流会というのは大勢が集まって飲み食いし騒ぐ会というのが相場で、ワクチンの摂取が始まってもしばらくは積極的に主催しづらい面があると考えています。
また、多くの交流会は大勢「人数」を集めることが目的化していたりして、言ってみればなんとなくみんなで集まる場以上の意義を見出しにくいように考えていました。バックグラウンドが異なる人たちが無秩序に集まる環境はトラブルも産みやすく、メリットよりもデメリットの面が気になってもいました。人間関係を創るよりも、壊すような状況の方が多いように見えていました。

そのため、テーマに則った「勉強会」にすることにします。

一つの(解決すべき)課題について情報を共有し、意見交換する場、となります。
このため、場所の縛りは無くし、オンラインでの参加も可能します。地域で縛ることもなく、関心があれば海外からでもOKです。

課題意識を持って取り組む人たちだけの会となるので、意識の高いハードルのものになるかもしれません。テーマが共通しない人は参加しないでしょうから、人数は集まりにくいだろうと思います。(人数が集まらないときは、自宅からのzoom会議のみみたいになるかもしれません)

ひとまず、初回は「支援と個人案件」に関する情報共有・意見交換会の予定です。
コロナ禍で支援と個人案件依頼(コミッション)は随分盛り上がっていきましたが、その現状の情報共有と意見交換がテーマとなります。


作品作りにおける価値観と順位、行動経済学

基本的に作品を作る際に重要とぼくが考えている要素の2つが、価値観と順位です

価値観というのは、何が好きか、何故好きか、というもので結局のところ作品を作るということはそれを表現することに他ならないのです
常に、見たり聞いたり、読んだりあるいは体験したりして価値を集め、それを構成していくのが作品作りだということです

価値観は千差万別なので、それ自体に正解というのは無いのですが、「自分に嘘をつく」ということだけは禁止事項だと思ってもいます。嘘をついては、何を作っているのかさっぱりわからなくなるからです

とはいえ、この価値観というのは直接的に金銭や作業量といった数値に置き換えて管理することが殆ど不可能なものです
そのため、ある程度の信頼できる数値的指標として順位を意識することになります

相対的な指標ですからこれを信じていればいい、上がればいいというものとは考えてなく、僕はこれを「余裕をみるため」のものとして考えています
例えば、書きながら生活をしていくためにはお金について意識せざるをえませんが、1枚の原稿に何時間かけたら良いのか?といった解や、何日おきに何枚くらい描きあげればよいのか?、といった指針を立てるために参考にしてみています。(これくらいの順位にいるグループはこれくらいのクオリティで作っているようだ、とか)
また、ときには生産性を改善するためにあれこれ仕込むのに使う時間の捻出する際に、ある程度の順位を維持し続けられる範囲でやる、という計算をおこなうこともあります

価値観と順位のどちらが大事になるかという疑問に対しては、順位は価値観より優先するものにはならない、あくまで優先するのは価値観、というのがぼくの持論です

一方で気をつけなければならない罠、と考えているのが行動経済学です

例えば映画を観に行こうと考える際に、「自分にとって好きな映画がわからない…」と決められない人がいるとします
そういった人が「とりあえず皆が観に行っている映画を観に行っておけば間違いない」と判断することは往々にしてあります
大勢が集まっているところに、とりあえず集まっていく、というのはリスクを避ける意味ではそれなりに正しそうです。しかし、大量の資金のもと広告宣伝をかけたりサクラを用意したりしてブームを醸成される場合、言いかえればお金でブームが作れた場合、この行動経済学的ふるまいはその人の価値観にとって正解と言えるかは疑問です

純粋に、自然発生的に人気が出た作品に資金が集まっていった場合にはそれは本物と言えそうです。しかし、胡散臭いケースもあるので気をつけなければならない

「フォロワーが多いからその政治家の政策は正しい」と言える人は流石に少ないでしょう。しかし奇妙なことに、「ランキングのトップだから良い映画だ」と言う人は結構いるものです

憧れの女 学祭編#9-10 のDL販売を開始しました

憧れの女 学祭編#9-10 のDL販売を開始しました
今回からDL販売版は”表紙のない”形態になります

https://www.dmm.co.jp/dc/doujin/-/detail/=/cid=d_192298/

https://www.dlsite.com/maniax/work/=/product_id/RJ310003.html

  1. FANBOXにて先行公開
  2. DL販売
  3. 同人誌発行

の順で公開していくことになります

FANBOXの先行公開のテーマは支援(資金調達)をしての作品の制作です
FANBOXでの公開は作品の先行公開と過去作品のアーカイブとしての役割もあります

一方のDL販売のテーマは、できるだけ手間なく・支援といったような後腐れなく・安く読める、を提供することです

大量生産・大衆消費型の本の提供は、買い手にとっては「良いものを安く・簡単に手に入れる」を提供することであり、作家側にとっては「沢山のひとにちょっとずつお金を出してもらって創作を支えてもらう」ことでした
しかし、電子版という形態・WEBの仕組みではこの前提を維持するのはとても難しいということがわかってきました
WEB上に設置されるECサイト・SNSはどうしても先行優位・格差が極端に働きやすいです
また、SNSの無料公開もそれ自体は稼ぎがありません
プラットフォームが持続的である保証もありません
違法アップロード問題も取り締まることは、テクノロジー・社会政策の両面で現実的ではないと考えています

電子版の漫画についても、読むことにも慣れてきた人も多くなってきてるように思います
(依然として、スマホの小さい画面で読むのは、個人的にはいまいちなのですが)
これに加えてコロナの影響もあって即売会の開催もやや及び腰になってきました
そこで紙版は、従来の「読めりゃいいやん」な人向けの頒布の役目は終えた、と考えることしました

同人誌での頒布は、イベントに集まって盛り上がりたい人向け、あるいは愛蔵したい人向けという役目にしよう、それが3の同人誌としての発行、になります
FANBOX・DL販売版と差別化する点として”表紙があります”

まとめると、FANBOXは作家を支えたい人向け、DL販売は安く手間なく後腐れなく読みたい人向け、同人誌は本として保管したい人向け、即売会頒布はイベントで盛り上がりたい人向け、というところです

この形がベスト、かどうかはまだまだわかりません
当面しばらく(1,2年位は)これで続けてみようというところです

FANBOX、DL販売、同人誌での頒布について

  1. FANBOXで本編公開
  2. DL版頒布
  3. 同人誌発行(即売会&書店委託)

今後はこの流れで行くようにします
DL販売では本文のみとし、同人誌版は表紙がつきます
同人誌版の発行と同時期に表紙のPSD版をFANBOXにも上げます

なので、FANBOX支援を頂いている方はFANBOXだけですべて作品を見ることができます
DL版はサブスク支援はせずに後腐れなく本編だけ読みたい人向け、という方針です
その分、少し安くしようかと思います(既にDL版があるものはそのままですが)

現状FANBOXを軸に公開している同人漫画ですが、なかなか即売会も再開していけないのでどうしたものか苦慮していました
全部FANBOXやDLで見れたらイベントで本を買うのも盛り上がらないかな、というところも心配でした
また、DL販売をFANBOXより優遇はしたくないな、というのもありました
上手くいくかはまだわかりませんが当面しばらくこの方向で行きます

メンデルスゾーン仮説とツイッター

とある本を読んでいたら「古代エジプトのピラミッド建設は農閑期の労働力を使った公共事業だった」なる記述があって「え?」となった

あれ?ピラミッドって墓じゃなかったっけ?
最近プレイしたペルソナ5でも墓として出てきたぞ?

まぁ、墓である、というのも一学説に過ぎず断定してるわけじゃないのかもしれない
でもなんか…、引っかかる。
単なる墓の建設が雇用を支える公共事業なら、タージ・マハルはどうなる?
アレのせいでムガル帝国の財政は大きく傾いたのに、単なる墓が経済効果があるとはちょっと思えない

あまりにも気になったので調べてみると、どうやらこの話、メンデルスゾーンなる学者が唱えた「仮説」らしい。否定もされてはいないが、実証もされていないし、せいぜい「ピラミッド建設は公共事業にあたるもの」ぐらいの表現になってる

じゃあいつの間にこんなに断定的な話になったんだろうか?

どうやらテレビでタレント学者が90年代にそういう話をして広まったのが原因らしい

うーん、そうか、なるほどテレビ受けしそうなネタだ
それに時期的には日米構造協議の時代、明らかに無駄な公共事業でも「観光資源」化できれば無駄じゃなかったと言い張れる下地作りに利用されたのかもしれない

しかし、嫌な予感がさらにする
ひょっとしてこれ、「ピラミッド=公共事業』説を信じてるの日本人だけなんじゃ…?
海外の人の認識ってどうなんだろう?当のエジプト人は?
そこまではちょっと追えなくて、ひとまず保留することにした

それでなんとなく、目先を変えて twitter で「ピラミッド 公共事業」で検索したらいっぱいツィートが出てくる。それも結構バズってる。「ファラオは雇用をささえたホワイト経営者!」なんてリプライしてる人も居る
(まぁノリで言ってるだけならいいけど、信じてたら怖いなぁ…ってか信じてそう)

…なんか頭がくらくらしそうになった…

こういうのがバズったりテレビ受けするんだってのはなんとなくわかる、皆が fav ったり RT してるからって「真」とは限らない、というより嘘のほうが伸びるってことのほうが真実か

この「ピラミッド=公共事業』説のカタチ、テレビであれSNSでもメディアを読む時に心に留めておくものにしよう

自分が何か歴史にかかわる話を書く時、こういった「真偽のあやしい説」を書く可能性は結構あると思う
でももしそういうのがバズったら、ずっとそれを背負っていくことになる、肝に銘じておくことにする

思想・価値観のすり合わせの問題

価値観の問題は実のところ一番の重要課題なのではないか、と思うのですがなかなか足を絡ませられていることが多いように感じます

具体的に、漫画で言えば。例えば絵作りに革新をもたらそうと熱意を持って取り組んでも、「いつもどおりで良いよ」を軽く扱われてしまったりするような経験は多いのではないか、と思います

ふと、M.サンデル先生、「自由主義と正義の限界」読んでいて気づいたことがあります

サンデル先生は保守主義側の人だと認識していますが、自由主義者に対してかなり精密に場合分けし観察しています

あれ、自分が知ってる「保守主義」な人とだいぶ違うな…、と

自分が知っている保守主義の人は、変化や革新を嫌い、他人の思考・価値観・思想に無関心でしれっとしていたり一方的に決めつけてくるイメージです

ああ、そうか、考えてみれば自分なんかでもゲームに関しては古くて伝統的なものを好み、革新や変化に強い関心をあんまり持ってません。無関心なものに対しては誰でも「保守主義」なのです

自分が漫画を作る際にも同じことが言えます。
世界観づくりに関しては知識・教養面をできるだけおさえようとします。細かいところまで場合分けして考え、分解・再構築して考えようとします。それらに対してアップデートをしたいからであり、そうしないとアップデートできないからです。一方で仕上げや線画作りの技術に関してはほとんど更新を加えていません。僕は、前者にとっては自由主義であり、後者にとっては保守主義なのです

これはつまり、一人の人間も、ある領域分野にたいしては自由主義で革新的なのに対し、別の分野では保守主義ということです

難しいのは、複数の人間…、例えば二人であったり、或いはもっと大きな人数でのプロジェクトの場合。
「何に対して自由主義」的なアプローチを認め、「何に対しては保守主義」的なアプローチをするかは皆で上手く調整する必要があるということです。
そうでないと、革新をもたらそうと考えている人(そこだけは譲れないと考えている人)と保守的な人(そこだけは変えたくない人)で争いが起きてしまいます

経験上そういったケースで、対話や論争だけでつつが無く収まることは無いように思います
特に時間が限られている場合は、早期の解決よりもチームの崩壊が先に訪れていました

このすり合わせはダイヤル式のロックのようなイメージです
「革新」はどれか0から9までの数字のうちのどれか一つの数字だけ、揃えないと鍵は開かない。
もし、二人ならそれは二桁なので、比較的難しくない
しかし、数十人となれば数十桁のダイヤル合わせ、鍵が開く日は気が遠くなるほど遠く、
さらに疎通が悪い相手ならもう匙を投げたくなります

誰でもウェルカムな漫画志望者のコミュニティ、連載が決まったのでとりあえず頭数だけ多くなるよう揃えるようにアシスタントを雇ったりする漫画家の職場、価値観もまるで合わないのにとりあえず沢山作家をぶら下げておこうとする編集者…、自分からすればどれも桁数の多いダイヤル式ロックです。
(と言ってもこういった場合の実際は、争いを避けるようにとひたすら無難に保守的に、しれっとした人間関係が構築されていくのが相場ではあるようです)

もし、新しいことをやりたい、というならば、最初はできるだけ近しい価値観を持ち、革新しようとしている目的についても意見の合う人で組む必要はあるように思います。
そして、あまりむやみに関係する人の数を増やそうとしないこと

漫画なら漫画家と読者、あるいはクライアントで2,3人がまずミニマムでしょうか

でもなにより、価値観の話ができる必要があることは間違いありません