web2 振り返り

告知どおり、twitterアカウントを削除しました

これは自分にとっては、ここ10年ほど続くスマホ・SNSの流れの象徴的な結論でもあります
過去のblog投稿と被る内容もあると思いますが、ざっくりと書いておきたい

SNS

日本でSNSが普及し、twitterが大きな存在となったのは震災の際にtwitterが活用されたからだと思っています
しかしだからといって、twitterが抱きしめて愛用するようなものかとは全くそのようなものでなかったし、日に日にずっと酷いものになり本性を表していきました
災害時対応用のインフラとしてSNS、というのは自分は全く支持しません
そのような考えは腐敗の温床を生む

ECサイト・DL販売とサブスク支援

FANBOXのような支援サイトの存在はとてもありがたく、作家活動としては必須なものと考えています
「サブスクのほうが儲かる」という意見をたまに見受けますが全く誤解です。サブスク嫌いな人や消費行為がストレス解消の人はサブスクを嫌うもので、実際の数字ではECサイトの単品購入のほうがずっと大きいのです
それでもサブスク支援のほうが有り難いのは、大衆消費モデルが非常に不安定で時期やタイミング、露出具合によって全く数字が変動するからです
「サブスクをやめた→応援をやめた→作品の評価」はおそらく作品に対する最も正確な評価でといえます。これと比べると売上という数字は様々な要素が絡むため評価と考えるのが難しい
また、ストレス解消消費の人は作品・作家そのものに興味がないことも珍しくなく、本気で応援したい人と同列にしてしまうと混乱します。名無しの立場から煽ってくる人たちやネガティブレビューでストレス解消するような人はサブスク支援などしないですから、自分にとってはその点が大きいです
結論として、FANBOX支援者向け公開→ECサイトでの単品販売orパブリック公開、という形に今は落ち着くことになりました

この10年は、web2…SNSやECサイトに共通して感じてることは非常に不透明で確信がなく信頼し難いプラットフォームを戦場とする上で何が必要かを知るための旅だったように思います
大衆消費モデルのほうが数字が大きいことにはこれからも変化はないでしょう
しかし、あからさまに数字が強調される世界で「数字の多寡が重要でないものが何か」を知ることはそれ以上に重要なことなのです

コミケお疲れ様でした

日曜日は暑い中コミケ参加された皆さんお疲れ様でした。
差し入れなどもいただき元気をもらいました、今後も頑張っていきます😁

新SNSについて

twitterの混乱のもと、前々から積極的に移行を検討していたので
移行先を探している方の一助になればとメモを残します

各新SNS雑感

Bluesky
フィードを作れるのが最大の特徴
効果的な自作フィードが登場すれば一気に人が増えるかもしれない
その特徴からか、ものづくりに関心の強いエンジニア・映画関係者・漫画家(アメコミ)などが目に付く。研究者もちらほら
落ち着いた雰囲気だけど投稿が少ないわけではない
尚、R18 フィードもあるのでかろうじてエロを上げる人もいる(表現はヌードくらいで、ホモと混在)
自分はよく使っていくつもり

Treads
陽キャ路線、有名人も多い
イラストレーターも綺麗どころが目立ってる印象
フィードもmetaの提供するサジェストに基づく物が1本と大胆な構成
Blueskyとは対称的に環境は限られた状態のもとで自ら日々研鑽し、人気取りをするタイプの業種向けだろうか。ファッション・スポーツ・観光・飲食・写真家、俳優…そういう人向けだと思われる

Threadsと名付けられている通り、一つのスレッドの会話(リプ)で
盛り上がって欲しいというのがmetaの意図らしいが、意図通りに機能してるかは不明
サジェストに基づくタイムラインもあまり期待通りのものとは言い難い
自分は4日で利用解除した

くるっぷ
pixivとtwitterを足して拡散力を殺したような構成
身内限定で絵の壁打ちをやるなら鍵垢やdiscordでもいいように思える
日本人にリーチするにはお祭り感が足りない、と思う
現状は使わないかな…

misskey.io
日本の同人描き・オタクと非常に親和性高そうなSNS
やっていることは既存のSNSの延長で、派手なお祭りにしてる感じなのでThreadsやBlueskyのような先進的な要素はないが
イラスト系以外に、意外とゲーム関係アカウントも多い様子
マネタイズに一抹の不安があり、バタッと逝くこともあるかもしれない
自分としては同人絡みでつかっていく

一元集約型かfedeverseか

meta社は複数のSNSが連携して動いていくfedeverseの思想だそうで
自分もそちらを支持したい

twitterは何でもかんでもtwitterに集約しようとして混乱に陥ったと考えている
はじめのうちは多様性を認めるコミュニティを目指していたのだろうけど、
やがてそこには格差が生まれて優位にある人は凶暴になり、負け組は心を病み、陰謀論者がはびこっては争いに油を注ぎ、うんざりした結果各々心の壁を作るか去っていった

さらには、期待外れのサジェストに的外れの広告ノイズ…
だったらもう、非集権型・分散型のほうでいい、一元集約型は実績のあるイーロン・マスクでさえ制御できなかったのならもう終わりで良い、というのが自分の考えである

非集権型・分散型の問題はお金で、投資家には魅力を感じにくいだろうしマネタイズが難しいかもしれない
どのコミュニティもtwitterのような極端なものではないにしても格差の問題も抱える

しかしひとまず、新しい勢力に力を注いでいきたい

作画のアナログとデジタル

アナログかデジタルか?の議論はしばらく長い間続いてきました
IT化の流れが落ち着いてきた今となってはそろそろ結論にしても良いのかも、ということで書くことにします

まず結論からすると、

どちらも使う

ということになります

もっと別の言い方をすると「フルデジタルもフルアナログもない」というところかと

エンジニア達の多くがデジタル作画ツールをアナログの感覚やアナログの表現力に近づける努力をしてきたとは思うのですが、昨今その空気は随分弱いものになったとおもいます
視差や遅延は完全には解消されないですし(これについては完全な解消は無理なのですが、その努力もされなくなったようです)、粒状画材や液体画材を再現することも(実際ツールは作られたのですが重すぎて)普及しなかった

アナログが持つ機敏さや表現力が必要なら、やはりアナログを使わざるを得ない

一方で、デジタルの優位性である、再利用性や修正・調整のしやすさはやはり活用するべきであります
また、企業側の都合でツールが変な方向にアップデートされていき、不都合が生まれる場合もあります。デジタルのデメリットの最たるものはむしろここかもしれません。これに関しては、個人やアーチストが予想をするのが難しいことも少なくない

なので、基本は

アナログで作画し、デジタルで調整・修正する
(必要なら再利用できるようデータとして残す)

そして、例えば画材のコストが重いことが問題の場合(例えばカラーとか)は
デジタルで彩色してデジタルで調整・修正する
という風ににフローを調整していくことになります
また、WEBのプラットフォームがデジタル作画よりアナログ作画のほうが受けが良ければ、デジタルツールからアナログツールへウェートを置き直します

twitterから距離を置く姿勢

twitterからの離脱プロセスは漸次進めていて、そろそろ自分の考えを書いておくことにします

twitterとの付き合い

twitterの使い始めは震災の前のころからだったと思います(記憶が曖昧ですが)
スマホは結構早い時期から使い始めていて(iphone3GSとかandroid2.2くらいの時代)、アカウントもその頃に作ったと思います
mixiあたりのSNSが肌にあわなかったので、SNSには積極的ではありませんでした

震災の頃にtwitterが活躍したこともあって、その後スマホが爆発的に普及しSNSの利用が注目されていき、自分もここで露出を増やさないと…と動いた時期もありました

しかし、いくら投下してもフォロワーを増やしても特に作品の売上に寄与する様子もなく、また当時話をしていた書店の人も本の売上とソーシャルアナリティクスが相関しないことを認めていました

以降はtwitterで積極的に何かするということはなくなり、ほぼ開店休業状態のまま5年位過ごしてきたと思います

WEBプラットフォームを使う上での哲学

SNS上での活動は意味がないのでしょうか
上手くやっている人がいる一方で、そうでない人がいるのでしょうか
当時から、企業がSNSへの広告宣伝費を控える話題も尽きることはなく続いてきました

自分の作品力に自信を無くしかけている頃に、明確な答えが見つかる機会がやってきました

SKIMAでの個人依頼が爆発的に増えたのです

その時になってようやっとはっきりと確信を持てる論理が見えてきました

WEBプラットフォームにおいて、「伸びる・伸びない」の因果を確証を持って知ることはできない

因果が存在しないわけではありません。しかしそれを知るにはWEBのバックエンドでどんなアルゴリズムが動いているのかを知り、人の心理をひも解ける必要がある…それはあまり現実的ではありません
twitterのシャドウバンのような怪しげな内部の仕組みは公開されないことのほうが普通でしょう、或いは珍妙な実装が残されていて開発者ですら気づいていない奇妙な振る舞いが放ったらかしになっているケースもありえます
人の心理もバイアスにエコーチャンバーまみれで、本音で言っているのかハッタリか、思い込みかを近しい関係でない相手から確信をもって知ることはとても難しいものです
加えて政治的なSNS工作、情報商材屋、怪しげな自称コンサル、そもそも特に意図もないBOT…

うまくいったと感じている人は、上手く行った結果の上に自分なりに理由を編み出して安心し、上手く行かなかった人は同様にうまく行かなかった理由を編み出し、いずれにしてもそれが真の解と一致する可能性は低い
時代の変化がやってきたとき、この「理由」は役に立たないか重荷になる可能性が高い

仮に「絵を上手くなるには沢山ラフに描いたほうがいいのか?丁寧に少数こなす方が良いか?」「危険な会社はすぐやめたほうが良いのか?1年はいたほうがいいのか?」という問いがtwitterのような場所であったとき、バイアスやエコーチャンバーにまみれてない回答に出会うことが可能だとも思えません
確信もって言えることは「正解は存在するかもしれないが、ここでは出会えない」ということだけです

そうして、どのように行動するべきかの哲学を得ました

WEBプラットフォーム上の活動をしていて何かアンダーパフォームしている感触があり、因果がすぐに見えないようなら、撤退は早い方が良い。説得力のある理由は不要

この考えの下、dlsite・twitter から距離を置いてきました
使えるリソースが増えることも重要ですが、精神的にも良い
そして実際、経済的にも順調です

各SNSへの引っ越しの状況

すぐにtwitterのアカウントを消して去っていく、というようなドラスティックなことはしないつもりです

自分の場合、テクノロジーの話題はnostrへ、国際時事・政治の話題はpostへ、作品を観たり読んだりの話題はblueskyへ、と”部分的に別の物件に引っ越し”を進めて行っています

最終的にtwitterには自分の作品に関する通知と(国内)政治についてのつぶやきだけが残るだけになるかもしれません、このままtwitterに良い変化がなければ

イラスト生成AIについて

ざわついているイラスト生成AIについて、現時点での自分なりの見解をまとめたいと思います
以前にもAIについて書きましたが、今回はイラスト生成AIに限った内容です

先に結論として自分のスタンスを言ってしまうと、「自分は反AI勢力にも与しないし積極的にAI絵師サイドを支持もしない」つもりです

様々な要素が複合しているため、簡単な話ではない
要素ごとに自分なりの認識を記述していきます

技術と法

モデルデータの作成にはイラストのデータが必要であり、その収集にスクレイピングという手段が用いられます
反AI派の意見を汲んで対処するのであれば、
+ モデルデータを検閲する
+ 自動収集に対してSNS側ができるだけ防衛する
ということになると思われます
検閲に関しては現行法的に難しそうです
権利者が声を上げ、データセットから削除するよう要請しなければなりませんが、権利者がデータに含まれているかわからなければ行動は起こせないですし、非営利・研究目的のデータ収集は合法の範囲です
こうなってくるともうここは政治家の人たちに法を定めてもらうよう動いてもらうしかなさそうです(落とし所にどうするのかは先の話でこれについては保留にします)

自動収集を完全にゼロにはできませんが、程度の低い人達が気軽にデータ収集してしまえないようにすることである程度の抵抗にはなります
とはいえ、スクレイピング対策にコストを払う意思がpixivにあるかどうか、ビジネスとして見合うのか、見合わないなら対策しないのもやむなしか、と

絵師と絵師でない人とSNS

SNSとスマートフォンの普及以降、色んな人が創作に参加してきました
プラットフォーム事業者というのは無闇とユーザ数を増やそうとするものです
これまで絵や話を作れなかった人たちが生成AIを用いて参加してくるとして、それをpixivのような会社が歓迎しないとは考えにくい、現行の既得権益者を差し置いてでもというのは必然の流れだと自分は思います
人口は間違いなく多い

また、自分は様々な個人依頼の経験から言っても、そういった人たちのモチベがとても強いものだというのを実感してもいます
惰性で作品を作り続けているような作家たちよりずっと強い念があるのです
ダーティな人が注目されたのでAI絵師を嫌うひとも居るようですが、
そういった人たちまで巻き込んで弾圧はあってほしくないなというのが正直な気持ちです

絵師の神格化、宗教的な側面

自分は作家を神がかったものとして認識することにあまり実感はありません
ただ、SNSを見ているとどうにも彼らに宗教家のようなものを感じています

自身の権威と神格を育て、信者から奉納金を得る、神絵師として…
信者たちにとって、AI絵師は神の冒涜者なのかもしれません

作品非公開等によって企業側に圧力をかける姿勢は、権威と神格のために権力者に絡みつく古い時代の神父・司祭達の振る舞いのようにも見えます

期待されるテクノロジーでもありますから変な形に決着してほしくはありません
「手間をかけて作ったものが尊く、手間をかけずにやったものは悪い」という風潮も改善の機会だと思います
非効率な働き方の社会の改善に向けて、どう決着がつくかは一つの分水嶺だと注目しています

イベントについて

イベントの規制も撤廃され、世間的にコロナ明けの雰囲気が作られようとしている感じがあります。しかし、どこかどんよりとした雰囲気は引きずっているようなでもあります
(実質的に解決したわけではないのですから当然なのですが)

一旦、ここでイベントについて今の自分の考えをまとめて書いておきたいと思います

まず自分の作品作りの周辺については、コロナ禍の時期を通して個人依頼とFANBOXでのサブスク支援下での創作でほぼ埋められていたという状態でした

これはどちらかというと「有り難い」状態でもありました

というのは、個人依頼は依頼者(読者)の念によって、FANBOXでの作品は制作者の念でほぼ作られるからであり、とても純度の高い状態でした
一方では、即売会や委託販売・商業出版物というのは事業者の影響があります
必ずしも自分の作りたいという思いの純度の高い環境ではないわけです
集中と選択の起きやすい環境でもありギャンブルな性格も強いです
イベント参加費をはじめとした諸費用も重く、中間業者のマージンも軽くありません
買いに行く人にも多くの負担があります

ITが普及していない時代には仕方なかったとはいえ、グローバルな視点で見れば印刷物はやはり読まれないものになりつつあるのであり、「そこまでしてあの世界に戻っていかなければならないのだろうか?」という気持ちが正直あります

同人誌はすでに大衆消費の領分にあると自分は考えるのですが、「大衆消費」とはなんでしょうか?

安いこと、沢山の人が同じものを消費し気持ちを共有すること、手軽であること、必ずしも個人が欲しいものではないこと、ある程度の信頼性があること、よくわからないオジサンが無責任にヤジをとばしてくること、その流通のためにインフラとプラットフォームに多くのお金がかかってきたこと…

「ハレの日の雰囲気」の楽しさは代えがたいという人もいるのもわかるのですが

もう一つ、考えてることが「あおり」についてです

「扇動と扇情」、ソーシャルとスマホの普及の影響でしょうが、そのような特徴の強い作品が多くなりました。SNSから広告、政治に至るまで「煽り」に満ちていたと思います。そして、「煽り」はイベントととても相性の良い組み合わせでした

しかし世間の多くの事件を経て「あおり」はただの「害」だったのでは?とそう感じるような時代に移っていっているように感じてもいます

イベントが戻ってくるにしても「扇動」に満ちた空気のイベントは戻ってきてほしくないな…、というのが正直な気持ちです
とはいえ、イベントはやはりそういうものであろうとし続けるとは予想します

なのでイベントが本格的に再開する方向でも、これから先も自分は「サブスク支援を起点」とするスタイルは続けますし、イベントを優先度を上にすることはないでしょう、個人依頼もまたイベントより優先します


“今のAI”について

自分は機械学習に基礎をおく今のAIをAI(人工知能)と呼ぶのは好きではない
およそ「知能」と呼ぶには相応しくないと思っている
なのでChatGPTやイラストAIのようなものを分けて、”今のAI”と呼ぶことにする

自分の漫画づくりにおいて驚異に感じる要素は正直言って無いのだけど、イラストAIやChatGPTを驚異のようにみる雰囲気はがあるのは感じている
(ちなみに、自分は必要に応じて漫画を作るのにも”今のAI”は活用する気でもいる)

この温度差は何だろう?

ChatGPTが出力する文には意思や意図は無い
オウムが人間の言葉を真似て返すのに似ている
複雑で心地のよい文章をそれらしく返す点では高度だが、本質は同じ

イラストAIもその方向性は同じではある

でもSNSを見渡してみると、「複雑で心地の良い」絵や文や漫画を大量にみる機会も多い
個人がアナリティクスと制作のフィードバックループ・大量の模倣対象を得ることによって似たようなクオリティの高いものを作れるようになる(商業も違いは無いかもっと先鋭的である)、そうするとデータセットが簡単に用意できる。”今のAI”に学習させるの容易になる
つまり、人間が「プログラムのように振る舞う」ことに近づくことでそのような作品が増え、結局”今のAI”がそれらをごっそり「模倣」したのが今の状況だと考える
そのような制作者にとっては”今のAI”は驚異だ

少し前の時代、制作者は「個性」を重んじていた
他の人と違うことにこだわっていたし、こだわるようしむけられもしていた
今は全く逆に「数字優先」であり、アナリティクスを元に模倣しあうようにしている
同じようなものが溢れかえり、同じような人が集まってお祭りをする

“今のAI”にとって一番面倒なのはデータである

データを集めるのもそれを食わせるために加工してデータセットを作るのも手間がかかる
コストは殆どはそこにかかっている。だから、データセット作りが容易な状況になった時が、”今のAI”の勝利する時だ

自分はSNSの流れに積極的に乗ってこなかったので”今のAI”を怖く感じてないのだと思う
(これはこれでしんどい面もあるのだけど、幸いにしてまぁまぁ上手く回ってくれてる)

これから先、状況は何か変わるだろうか?
「人間がプログラムのように振る舞う」流れがひとまず変わっていって欲しいというのが本音だけど、それについて書くのはまた別の機会に